2026.08.25
なぜ私は写真を撮るのか

なぜ写真を撮るのか。
そう聞かれると、今でも少し考える。
写真を撮るのが好きだから。
それもある。
でも、それだけでは説明出来ない。
たぶん僕は、写真を使って何かを伝えたいのだ
まずは綺麗な写真を撮りたい、
ボケ感のある写真を撮りたいと思ったりして一眼レフを買ったところから、
今は、伝わる写真を撮りたいとなっている。
ただ、何を伝えたいのかを、いつも言葉で説明できるわけではない。
自分の中にある感覚だったり、考えていることだったり、日々の中で感じた違和感だったり。
言葉にすると少し違ってしまうものを、写真に置き換えてみる。
それが自分にとっての写真なのかもしれない。
写真は、現実をそのまま伝えることができる。
その瞬間に起きていることを残すことができる。
でも、私が写真で伝えたいのは、そこに写っているものだけではない。
その写真を見たときに、自分が感じたこと。
その場所に流れていた時間。
人と人との距離。
そういうものを、どうすれば一枚の写真の中に残せるのか。
それをずっと考えている。
これまで作品を作ってきて、何度も「境界」について考えてきた。
人と人。
自然と人工。
自分と他者。
日本と海外。
現実と記憶。
最近は、その境界そのものよりも、境界の「あいだ」にあるものが気になっている。
どちらにも完全には属さない場所。
近いけれど、完全にはわかり合えない距離。
言葉にできることと、できないことのあいだ。
そこには、写真でしか伝えられないものがあるような気がしている。
だから、私は写真だけにこだわっているわけではない。
写真を切ったり、重ねたり、絵を加えたり、立体にしたり、映像にしたりする。
写真だけでは伝えきれないと思ったら、別の方法を使う。もしくは写真から抜け出そうとしている
それでも出発点には、写真があることが多い
写真を撮ることが目的なのではなく、
写真を使って、何かを伝えることも考えている
伝えたいことが、はっきり決まっているときもある。
社会についてだったり、人との関係だったり、戦争についてだったり、自然についてだったり。
でも、すべてを説明したいわけではない。
作品を見た人に、
「こういう意味です」
と答えを渡してしまうと、そこで終わってしまう気がする。
だから、少し余白を残したい。
自分が感じたことを作品に置いて、それを見た人が自分の経験や記憶を重ねる。
同じ作品でも、見る人によって違うものになる。
その方がいいと思っている。
写真は、自分のためだけに撮っているものではない。
誰かに見てもらうために撮っている。
そして、何かを感じてもらうために撮っている。
それが、共感なのか、違和感なのか、疑問なのかはわからない。
ただ、何かが残ればいい。
写真を見たあと、少しだけ立ち止まる。
もう一度見る。
自分の中にある何かを思い出す。
そんなことが起きれば、それで十分なのかもしれない。
だから今も写真を撮っている。
何かを見つけるためというより、
何かを伝えるために。
自分の中にあるものを、写真という形にして外へ出す。
そして、それを見た誰かの中で、また別の意味が生まれる。
その繰り返しが、自分にとって写真なのだと思う。